
Buddy Matsumae (1989)
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Translations 2
English (en-US) |
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Title |
Buddy Matsumae |
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Overview |
The establishment of Hiroyuki Ohki's Matsumae-Kun's film is an inversion of the relationship between reality and image, as opposed to a documentary, in which something is happening in reality and the filmmaker goes there to make images of it, or story film, in which the filmmaker goes there to make images of it because there is something most suitable for embodying his or her ideas. It can be said that this is the case. Herein lies the film's acute problematic nature. |
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Japanese (ja-JP) |
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Title |
松前君の映画 |
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Overview |
「君がいて、ぼくがいて、映画がある」 『松前君の映画』は二部構成になっていて、導入部の第一部は「非松前に於ける松前君」というタイトルのもとにまとめられているが、これが駅のブリッジで待っている女の子に向って行くと、その子がカメラを持っている当人に向って「松前君」と名指す、とカメラを女の子に渡して自分を撮ってもらい、Tシャツの胸に「松前」と刷ってあるのを示す、というカットの繰り返し、それに離れた二つのプラットホームのこちらから向うへ、向うからこちらへと行ったり来たりするシーンになって、導入部は終る。ここで「彼」は「松前君」になるというわけであろうか。一種の命名の儀式ということであろう。そして、第二部の「松前君の映画」へ展開する。つまり、松前町での「彼」の「映画行動」の記録となる。しかし、松前町に行って「何か」を撮るという目的があったとは見えない。旅館の一室から窓の外を撮る、室内のテレビなどを撮る、外に出て何とはなく街の風景を撮る、部屋で自分を撮る、カメラを廻しながらマスターベーションをして、その自分の男根を撮る、そのカメラを夕暮れの街に向け、鏡に映る自分を通って、射精する男根へ戻す、といった具合に、自分を撮るというところではどこか儀式めいた行為を重ねながら、町の中を、最初は表通りとか公園の城とかそんなものしか撮れなかったのが裏通りでも撮れるようになり、町の人の姿が撮れなかった |
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